ホーム お茶コラム > お茶の色は、もともとは茶色だった?

茶種による色の違い

「お茶は緑なのに、なぜ"茶”というの?」

 

そう疑問に思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

お茶の色のことを水色(すいしょく)と言いますが、実は茶種によって、この水色は微妙に違います。まずはその違いを見てみましょう。

茶種 玉露 かぶせ茶 煎茶 深蒸し茶 ほうじ茶
水色
特長

青みがかった緑色

やや青みがかった緑色

山吹色

濃い緑色

茶色

 

●玉露やかぶせ茶

茶畑に覆いをして光を遮って作るため、少ない日光をより効率的に吸収しようとして、葉緑素(クロロフィル)が大量に生成されます。これが鮮やかな緑色を作り出しています。

●煎茶

黄色色素は、フラボノール配糖体やフラボン配糖体によるものと考えられています。

●深蒸し茶

煎茶より長く蒸すため茶葉が細かくなります。その粒子が浮遊して濃い緑色になります。

●ほうじ茶

加熱することによりカテキン類が酸化するため茶色になります。

 

緑色の方が美味しそうに見えることから、最近では緑色のものが好まれる傾向があり、蒸しを強くした煎茶が増えています。

 

 

お茶の色は本来、茶色だった?

お茶の″茶″は、ほうじ茶の水色から来ているのでしょうか?

答えはいいえ、になります。実はほうじ茶の歴史は意外と浅く、昭和初期に考えられたと言われています。(明治・大正にはあったという説もあります)

 

奈良・平安時代にはお茶(抹茶)が飲まれていたと考えられていますが、当時大変貴重なものでしたので、僧侶や貴族階級のごく限られた人しか口にできませんでした。鎌倉時代に、臨済宗の開祖・栄西がお茶を宋から持ち帰り、『喫茶養生記』を著したことから、全国へその製法や飲み方が広まっていきました。

では、この頃飲まれていたものはどんなお茶だったのでしょう。『喫茶養生記』は次のように書かれています。

 

 

(製茶法)

宋朝にて茶を焙る様を見るに、朝に採み即ち蒸し、即ち之を焙る。懈怠怠慢の者の為すべからざる事なり。焙棚は紙を敷き、紙の焦げざるばかりに火を誘い入れ、工夫して之を焙る。緩かならず急ならず、終夜眠らずして、夜の内に焙り上ぐ。好き瓶に盛(い)れ、竹葉を以て堅く閉ざさば、則ち年歳を経るも損われず。

(喫茶法)

白湯(ただ沸かした水をいうなり)、極めて熱くしこれを点服す。銭大の匙にて二・三匙、多少は意に随う。ただ湯少なきを好しとす。それも又意に随う云云。殊に濃きを以て美となす。 

 

 

  鎌倉時代 現在
栽培方法

露地栽培

覆下栽培

製茶方法 茶摘み→蒸す→焙る(乾燥) 茶摘み→蒸す→冷却→炉で熱風乾燥→選別(茎や葉脈を除去)
粉砕方法 薬研で粉砕(推測) 茶臼で挽く
飲み方 熱湯を注いで撹拌(推測) 熱湯を注いで茶筅で点てる

このように、当時作られていたお茶は、茶摘み→蒸す→焙る という工程で作られ、そのお茶に熱湯を注いで飲んでいました。この製法は、現在の碾茶(抹茶の原料)とほとんど変わりません。

お茶に含まれるテアニン(旨味成分)は、日光を浴びるとカテキン(渋み成分)に変化します。これをよしずや藁で日光を遮って栽培(覆下栽培)することで、柔らかく鮮やかな緑で、旨味の多いお茶になります。現在では、「露地栽培」で作られるのが主に煎茶で、「覆下栽培」で作られるのが碾茶や玉露になります。

 

当時飲まれていたお茶(抹茶)は、煎茶の栽培方法で作られていたので、渋味が強く黄色が強いお茶だったと考えられます。またきめは粗く、ざらざらした舌触りだったことでしょう。完成したお茶は、瓶に入れ何年も保管していたことがうかがえるので、「茶」と表現されたのかもしれません。

濃緑のお茶が作られるようになったのは、江戸時代

将軍や大名たちが愛したお茶

戦国時代になり、茶の湯が盛んになると、宇治では茶畑に覆いをして育てる「覆下栽培」で抹茶が作られるようになっていきます。

この「覆下栽培」は、宇治だけに認められた栽培方法で、将軍や大名に代表されるごく限られた上流階級の人たちしか飲むことはできませんでした。これにより鮮やかで、濃緑色のあるうまみの強い茶が生まれました。

 

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永谷宗円が、新しい煎茶製法を考案

1738年、宇治湯屋谷の永谷宗円は、この蒸し製碾茶とこれまでの釜炒り製法の良いところを取り入れて、新しい煎茶製法である「蒸し製法」を編み出しました。摘んだ葉を蒸して殺青し、和紙を貼った焙炉の上で揉みながら乾燥させる製法で、美しい緑色で香りのよいお茶が作られるようになりました。

これにより、それまでの抹茶のような粉末ではなく、急須に入れた茶葉にお湯を注いで飲む「淹茶(えんちゃ)法」がうまれました。これが江戸の茶商「山本山」の山本嘉兵衛から高い評価を得、次第に各地に広まっていきました。家庭でお茶が飲まれるようになったのは、明治・大正時代頃からになります。