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宇治茶のはじまり
鎌倉時代初期、建久2年(1191年)、臨済宗の開祖といわれている僧・栄西禅師は、宋から帰国した際に、栽培方法や喫茶法を持ち帰りました。そして長崎県平戸の富春園に日本最初の茶園を開き、さらに福岡県と佐賀県との境にある脊振山に茶園を開いたと伝えられています。その後、高山寺の明恵上人にチャの種を贈り、明恵上人が栂ノ尾にお茶の種を蒔いたことから、京都でお茶の栽培が始まったとされています。
栄西は、承元5年(1211年)の71歳のときに、日本最初の茶書『喫茶養生記』を著しました。
「茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。山野之を生ずれば、其の地神霊なり」という文章で始まり、上巻は茶の効用、下巻には桑の効能を詳述しています。これによりお茶が全国に広まっていきました。
1379年には、足利義満が宇治茶の栽培をするために「宇治七名園」と呼ばれる七つの指定茶園を作り、宇治では一層茶栽培が盛んになりました。
※写真は、「京都府選定文化的景観」となっている、和束町の宇治茶の茶畑景観。
宇治だけに許された”覆い下栽培”
16世紀後半なると、ヨシズやワラで茶園を覆う、覆下栽培という栽培方法が開発されました。これは宇治だけに許されていた栽培方法でした。これにより鮮やかで、濃緑色のあるうまみの強い茶が生まれました。そして生産された碾茶(抹茶の原料)は、茶師と呼ばれる特権茶商によって、合組(ブレンド)をするなどオリジナリティのあるお茶に仕上げられました。江戸時代には、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受けながら、宇治茶のブランドが確立されていきました。
煎茶の発明
1738年、宇治湯屋谷の永谷宗円が、これまでの釜炒り製法や碾茶製法に工夫を重ねて、新しい煎茶製法である「蒸し製法」を編み出しました。摘んだ葉を蒸して殺青し、和紙を貼った焙炉の上で揉みながら乾燥させる製法で、これが現在の煎茶のはじまりです。これにより、それまでの抹茶のような粉末ではなく、急須に入れた茶葉にお湯を注いで飲む「淹茶(えんちゃ)法」がうまれました。これが江戸の茶商「山本山」の山本嘉兵衛から高い評価を得、次第に各地に広まっていきました。
玉露の発明
1835年には、江戸日本橋の茶商、山本山の6代目・山本嘉兵衛(徳翁)が「玉露」を発明しました。玉露の名前は、製茶業者山本山の商品名に由来し、山本嘉兵衛が、宇治において製茶中に茶葉を露のように丸くあぶったことが玉露の原型となったとされています。また、別の説では、碾茶の新芽から「甘露の味がする」と評されたとか、玉露独特の旨みが玉の露のようだからとも言われています。
玉露は、煎茶の栽培方法とは異なり、摘み取り前の約20日ほど覆下栽培で作られます。味だけでなく、「覆い香」といわれる香りも独特で、お茶の旨みをぎゅっと濃縮させた玉露は、贅沢の極みです。
宇治茶の定義
もともと宇治茶とは、宇治郷に住んでいる宇治茶師たちが、もっている茶園で作ったお茶のことをいっていましたが、宇治郷に住みながら、宇治郷外の茶園でお茶を作っている人もいました。そのため、宇治郷の茶師のもとへ集められたお茶を宇治茶というようになりました。
そのうち宇治茶の偽物が出回るようになり、1584年の「羽柴秀吉禁制」(京都大学蔵上林文書)で、他郷の人は、宇治茶といったり、茶袋を似せたり、よそで商売するなといった禁止令を出しました。
ちなみに今の宇治茶の定義は、「京都府・奈良県・滋賀県・三重県の4府県産茶を京都府内業者が京都府内において宇治地域に由来する製法により仕上加工した緑茶」とされています。(地域団体商標 登録第5050328号 宇治茶®)。
いわゆる京ものといわれる京都ブランドにも、京友禅、京扇子というものがありますが、これらももともとは他県で作っており、京都で最終加工してそう呼ばれます。通常、産地といえば、その地域で作られたものを指しますが、京都は別で、昔からのこういう流れから、集積地としての産地をいいます。