御茶壺道中のはじまり
江戸幕府、三代将軍家光は、御茶師仲ヶ間の筆頭であった上林家に命じて、朝廷に献上するお茶と将軍家用の高級茶を、宇治の茶師に作らせ、茶壺に詰めて江戸に献上させていました。これが御茶壺道中のはじまりで、1632年より正式に制度化されたといわれています。
行列は、幕府から派遣される採茶使が、空の茶壺とともに江戸を出て、東海道を京に向かい、宇治で碾茶を茶壺に詰めたあと、一旦京都の愛宕山へ預けます。その後、中山道(なかせんどう)を通って、途中、茶壺を山梨県の谷村に置いて夏を過ごさせ、秋になってから江戸へ運びました。
御茶壺道中は、将軍通行に匹敵するほど格式のあるもので、茶壺を持った使者が仰々しい行列を伴って通るときには、諸国の大名行列させも道をあけ、庶民は顔を上げられなかったといいます。
こうして運ばれた茶壺は、秋になって初めて茶壺から出して、臼で挽いて抹茶となりました。
わらべ歌「ずいずいずっころばし」の歌詞の中に、このようなフレーズがあります。
ちゃつぼに おわれてトッピンシャンぬけたら ドンドコショ~
これが御茶壺道中の様子を表しているもので、御茶壺道中の行列がやって来たので、戸口をピシャっと閉めて家に逃げ込み、行列が通り過ぎたら、ホッと胸をなでおろしたというような感じでしょうか。
新茶の季節には、宇治橋のたもとに「御物御茶壺出行無之内は新茶出すべからず」という高札が掲げられ、朝廷と将軍に御茶壺を献上するまでは新茶の売買を禁じていました。当時のお茶に対する扱いが、大層なものだったことが伺えます。 ところが、その御茶壺道中も、慶応3年(1867)江戸幕府の終焉によって、幕を閉じました。
茶壺の中身
さらに、これは「御茶入日記」と書かれていますが、いつ、誰が、どういうお茶をどれだけ茶壺に詰めたかがわかるようになっているものです。茶壺を入れる外箱のフタの裏に貼られます。
では、茶壺にはどのように詰められるのでしょうか。
濃茶用の極上の銘柄の碾茶を袋に入れておいて、まず安い碾茶を壷にいれ、それから袋にいれた極上の碾茶を入れ、また安い碾茶をいれます。こうすることにより、防湿とクッションにしていましたが、安い碾茶もそのままだともったいないから、薄茶用として飲むようになったのだそうです。また、蓋をした後、周りに紙を張って柿渋を塗って糊付けし、さらに上にも同様に糊付けします。その和紙の上に、茶師の印を押します。もちろん中に入れた濃茶用の袋にいれたものも、割印と、下部にも印をします。
さらに和紙を蓋にかぶせて、こよりで結びます。この結び方にも通常の場合と献上の場合によって変えるようです。これは、幕府のためのお茶であり、将軍が飲むものなので、途中で開けられて毒がいれられることも考え、そういうことがすぐわかるようにしています。
このようにして茶詰が終ると茶道頭により、壺が封印、鍵附きの外箱に収められ、御茶入日記がそえられます。御茶入日記には、茶壺の中の茶の種類、銘柄、量目、茶詰の月日、茶師の名が記され、壺の封を切らなくても内容記載がわかるようにされました。
御茶壷道中は明治に変わる前に廃れてしまいましたが、今でも京都では、10月の宇治茶まつりや11月の北野天満宮などで、御茶壺奉献祭・口切式が行なわれています。