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嬉野茶の歴史
嬉野茶は、1440年に嬉野に移り住んだ中国(明)の陶工が自家用に茶を栽培、製茶して利用していたのがはじまりとされています。1504年、同じく中国から嬉野に移り住んだ「紅令民」という陶工が南京釜を持ち込み、当時の中国で飲まれていた最新の釜炒り茶の製法を嬉野に伝えたことから広がりました。
江戸時代はじめに、「吉村新兵衛」が嬉野において茶の産業化を図り、以後長崎街道を通って嬉野宿に宿泊した司馬江漢や吉田松陰など数々の文人、またドイツ医師のケンペルやシーボルトらにより、当時の嬉野茶の記録が遺されています。幕末には長崎の女性貿易商、大浦慶によって大量の嬉野茶がアメリカに輸出されました。これは民間人による茶貿易の第一号とされています。
嬉野茶の特徴
嬉野茶は、玉緑茶が主流です。玉緑茶は、製法はほぼ煎茶と同じですが、精揉工程を行なわずに乾かすため、煎茶のような針のように細長い形ではなく、勾玉(まがたま)状になることから玉緑茶と呼ばれています。グリグリとした丸い形状から、グリ茶ともいいますが、過去に輸出向けに大量生産された経緯からグリーンティーが訛ったとする説、仏画や寺院で見られる雲の模様=屈輪(グリ)と形状が類似している事からとする説などがあります。静岡では「ヨンコン」とも呼ばれています。1932年に玉緑茶と改称されました。
殺青方法の違いにより、蒸し製と釜炒り製があります。戦前までは釜炒り茶の生産がほとんどでしたが、戦後は徐々に蒸し製の生産に変わっていき、現在では生産量の地約98%ほどを蒸し製玉緑茶が占めています。
釜炒り製玉緑茶
中国から伝わった伝統の製法で作られたお茶です。中国の製法そのままに作られるため、かつては唐茶(とうちゃ)とも呼ばれていました。傾けて設置した専用窯を使う佐賀の「嬉野(うれしの)製」と普通の鉄鍋を使う熊本や宮崎の「青柳(あおやぎ)製」の2種があります。嬉野製は15世紀半ばに中国人が伝えたといわれ、青柳製は自家用の茶の製法として西日本で広く行なわれていたようです。昭和初期より機械化が進んだため、現在ではその差は目立たなくなっています。
青臭さが少なく、独特の釜香(かまか)と呼ばれる香りとさっぱりとした風味があります。手作業で仕上げる工程も多く手間がかかるため、江戸時代に「蒸す」製茶方が発明されてからというもの、ほとんど廃れていってしまいました。そのため、希少性の高いお茶です。
蒸し製玉緑茶
蒸し製玉緑茶は、もともと釜炒り茶の改良型製法として開発されました。1930年頃、当時ソ連の中国産釜炒り茶が飲まれていた地域へ日本の茶をなんとか輸出しようと、形は釜炒り茶と同じで煎茶の機械で作れるお茶を・・と工夫したのがはじまりです。渋みが少なく、ほのかな甘みのある味わいです。
嬉野茶の定義
嬉野茶は「佐賀県または長崎県において生産された原料茶を100%使用し仕上げ加工した茶を統一銘柄「うれしの茶(嬉野茶)」とし、50%以上100%未満使用を「うれしの茶ブレンド(嬉野茶ブレンド)としています。
2008年には『嬉野市を茶の発祥地とし佐賀県および長崎県において生産加工された茶』を「うれしの茶」として地域団体商標を取得しました。