ホーム > お茶コラム > お茶の歴史 > 茶人 村田珠光と柳の水
村田珠光の住居跡
ちきりやからほど近い、三条西洞院下ルに、柳水町(りゅうすいちょう)というところがあります。
ここは茶道の祖 村田珠光(むらたじゅこう)の住居があった場所です。
のちに、織田信長の次男織田信雄(1558-1630)がこの付近に居を構え、その後肥後の武将・加藤清正(1562-1611)の京邸となりました。そして、貞享年間(1684-1687)以降、明治3年(1870)まで、徳川御三家のひとつ・紀州藩の藩邸がありました。
所蔵地図データベース「洛中絵図」元禄6年(1693年)頃か?より
西洞院柳水丁東側に、紀州御屋敷とあります。
ちなみにそのすぐ右側、鷹山丁の南側に見えるのが了頓図子といい、茶人・廣野了頓の屋敷があった場所になります。
村田珠光(1422-1502)は、室町時代中期の茶人で、「わび茶」の祖と言われています。
奈良出身の僧侶で、一休宗純との親交で禅の影響を受け、これまでの豪華絢爛な茶の湯ではなく、
茶の湯に禅の精神を加味し、日本的な不足の美をよしとする、新たな美意識を茶の湯の世界にもたらしました。
村田珠光 ― 武野紹鴎 ― 千利休 とその精神は引き継がれ「わび茶」は完成されました。
村田珠光は、庭園も手掛けており、大徳寺真珠庵庭園、酬恩庵一休寺庭園、一休寺虎丘庵庭園があります。
真珠庵には珠光の墓もあります。
この地にある柳の水は、約300尺(90m)の湧き水です。
『雍州府志(黒川道祐著 1682-1686)8 P39』に、
「柳水は西洞院三条の南の元内府・織田信雄公の屋敷の井戸で、この水は非常に清涼である。井戸に直接陽が当たらないように柳を植えたことからこの名前が付けられた。千利休がもっぱらこの水で茶を点て、これに及ぶ水はないと称賛した」
とあり、今でも京都の名水のひとつとして知られています。
今、ここには、馬場染工業株式会社がありますが、営業時間内であれば、水を汲むこともできます。