中国の宗時代には、一座に集まった人々が、抹茶の産地や茶を点てるのに使った水の種類を判別し合って勝負を決める遊び「闘茶」が行われていました。これが中世初期に、日本に茶の栽培および製造法が渡来する時に共に伝わって来ました。 鎌倉末期には、寺院だけでなく、貴族や武士層にも喫茶の習慣が広まりました。
やがて社交の場として、「会所の茶」が流行しました。会所とは、接客の為の部屋のことで、そこに当時流行していた唐物(中国到来)の絵画・墨蹟(ぼくせき)・花瓶・香炉などを飾り、唐物の茶道具を使ってお茶を淹れるのが習わしでした。それらを観賞しながら、お茶を飲んだり、和歌や連歌などを詠んだりしていました。
1320年頃に、そういった会所の茶が、遊興的な「闘茶」へと広がりました。茶歌舞伎や茶香服、茶寄合とも呼ばれるもので、お茶を飲む習慣のあった貴族や武士たちの遊びとして流行しました。お茶を飲んでその産地をを当てるという遊びです。当初は、明恵上人がもたらした栂ノ尾の茶を「本茶(ほんちゃ)」、それ以外の産地のお茶を「非茶(ひちゃ)」として、茶を飲み比べて当てるというものでした。
南北朝の動乱期になると、闘茶はますます勢いを増していきました。上流階級での優雅な遊びだったため、たがて茶会の飾り付けや置物に至るまで豪華になったり、賭け事が行なわれるようになりました。ついに、建武3年(1336年)初代将軍足利尊氏は、「建武式目」で闘茶を禁止しました。
それが茶道の創設とともに、茶事の余興として、茶歌舞伎が現在に受け継がれています。
闘茶の競技方法
本来の競技は、玉露二種、煎茶三種を用い、それぞれの茶に「花・鳥・風・月・客」の名前をつけて、五種類飲み、これを五回繰り返してその五回の合計点数を競います。
①解答用紙に名前を記入します。
②競技に使用するお茶に、名前をつけます。たとえば玉露(上)は花、煎茶(上)は風、煎茶(下)は客、というように。
③五種類の試料茶を拝見盆に入れ競技者が見ていきます。競技者は試料茶の形状・色・香りでどんなお茶がでるか予想します。
④五種類のお茶の順序を変え、五回に分けて、煎じ手がお茶をそれぞれ入れていきます。
急須にお茶を10g入れ、熱湯をさし、90秒たったものを茶碗に注ぎ分け、係員がお手元へ運びます。
五種類のお茶がいっぺんにでてくるのではなく、一種類ずつ出てきて、一種類飲むごとに、「花」、「鳥」、「風」、 「月」、「客」のどれかを解答用紙に〇印で記入していきます。(同じお茶が二度出てくることはありません)
これは、花鳥風月でお茶の種類をあてる茶歌舞伎で使うもの。それぞれ番号がふってあり、1回飲むごとに、自分の番号のところに駒を入れていき、最後に答えあわせをします。鳥という駒を入れたあとで、「あのお茶は花だった」と思っても、変えることはできません。シビアな世界ですね。