ホーム > お茶コラム > お茶の歴史 > 隠元による新しい日本茶
明の禅僧・隠元(いんげん)は、1654年に来日し、1655年摂津国の富田の普門寺に迎えられ、1658年4代将軍徳川家綱に謁見するために江戸に出ました。京都では後水尾上皇はじめ公家の信望を得、京都府宇治市に黄檗山萬福寺を開きました。
自分が中国にいた時の寺を模して中国の明朝様式で建てられ、同じ名前をつけられました。万福寺とも表記されることもありますが、宗教法人としての名称は「萬福寺」となっています。
当時、中国より持ち込まれたものとして、美術・医術・音楽・印刷・煎茶など、広汎にわたり、日本の文化へ大きな貢献をしました。このお寺は、建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで、中国風になっています。
門をくぐってすぐにある、菊舎尼の詠んだ「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」の歌碑です。
山口県出身の女流俳人で、萩の清光寺にて出家した尼で、寛政2(1790)年3月に萬福寺を訪れ、中国風の異国情緒あふれる雰囲気の境内から、一歩門をでると茶摘歌が聞こえ、それによって我にかえり、ここは日本だったんだなぁと気がついた、という内容だそうです。
門前、総門前にみられる「駒蹄影園(こまのあしかげえん)碑」。
鎌倉時代の初め頃、住民が茶の種のまき方がわからず困っていたところ、京都西北部の栂尾・高山寺の明恵上人が馬で畑に乗り入れ、馬のひずめの跡に種を蒔くように教えたといわれています。これが宇治茶の始まりといわれ、大正15年(1926)に宇治の茶業組合によって建立されました。
天王殿の正面左手には隠元豆が植えられています。隠元禅師が渡来の際、持ち込んだとされる種が奇跡的に芽を出し、それを増やしたものだそうです。
渡来当時の宇治は、抹茶の原料づくりが主流でしたが、隠元らは寺内で飲用する唐茶の製造を試みました。
唐茶とは、中国明代に渡来し佐賀や長崎に住みついた人々が作った中国式緑茶である釜炒り茶のことをいいます。また使う釜を唐釜と呼びました。
高遊外(こうゆうがい)も同様江戸中期の黄檗宗の僧で、煎茶家、一服一煎の実践者でもあります。売茶翁(ばいさおう)の名前でも知られています。煎茶を飲みながら禅の精神を説く喫茶法を、この萬福寺に採り入れました。