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室町幕府第8代将軍 足利義政の時代に東山文化が発展しました。この頃の会所の茶は、侘び・寂び・幽玄を精神的な基調としていました。村田珠光(むらたじゅこう)は、茶道の祖といわれ、茶と禅の精神を追及し、侘び茶の精神をつくりました。そして、侘び・数寄(すき)の理念に基づき「四畳半の茶室」を創始しました。それまでの茶会は、唐物を観賞する場であったのに対し、珠光の茶は、全体の装飾を簡素化し、精神面を求めたものへと変わっていきました。そしてこの侘び茶の精神は、堺の町衆にも広がり、武野紹鴎(たけのじょうおう)によって、さらに深められました。
 

のちに堺の豪商出身で、紹鴎の弟子となった千宗易(せんそうせき のちの利休)が、茶の湯を大成しました。その後、織田信長に仕え、茶会を支える茶頭となりました。1582年に本能寺の変で、織田信長が殺された後は、豊臣秀吉に仕えました。秀吉の豪華で派手好みの嗜好を示すものに、黄金の茶室があります。北野大茶会の時に拝殿に置かれ、三畳間の柱はすべて金貼り、茶道具も金というものでした。

 

これは、京都の北野天満宮にある、豊臣秀吉公が天正15年に催した『北野大茶会』ゆかりの井戸です。 豪華絢爛を支持していた秀吉と対立し、1591年(天正19年)に、利休は秀吉に切腹を命じられてしまいます。千利休のお墓は、京都・大徳寺 聚光院に祀られています。

 

茶の湯は、この頃から政治と密着した儀礼となり、公の場では欠かせないものとなりました。現在の日本の茶道文界を代表する、裏千家、表千家、武者小路千家は、いずれも千利休の子孫により受け継がれています。